相撲史

p45「勝てば良い」だけでないところに、相撲の相撲たる由縁がある。もちろん勝って良いのだが、その所作や取り組みに対する哲学は必ずしも勝利にばかり囚われない。その所作の一つ一つには土俵の神々に対する畏敬の念や、相手に対する敬意が込められ、自己に対する節度が体現されている。

一方で、取り組みはきわめて合理的。おっつけやハズ押し、差し手、組んでからの投げ技には、テコの原理や遠心力といった動体物理学の原理が息づいている。ここに「柔よく剛を制す」相撲ならではのドラマが生じ、階級制のない弱肉強食の世界が展開される。不合理と合理性の共存。儀式と勝負の両面を極めんとする、精神と肉体の融合。そこに、相撲だけが持つ美学が存在する。

欧米のスポーツとは明らかに一線を画す国技・相撲。その複雑にして深遠な世界は、どのようにして生まれ、どのようにして発展していったのだろう。


古代~中世 1.お釈迦さまも相撲を取った

日本の国技とされる相撲だが、似たような競技は世界各地で古くから行われており、さまざまな文献や出土品からその様子がうかがえる。古代メソポタミア初代王朝時代の青銅の壺や、エジプト中王国時代の壁画などに描かれている格闘技は、寝技のようなものもあり、現在のレスリングのような形態だったのかもしれない。
紀元前5世紀頃のインドでは、妻を娶るために力比べをする「争婚」という習慣があった。『本行経』によると「釈迦が太子の頃、力比べに勝ってマンダラ姫を手に入れた」とある。
『本行経』は紀元前2世紀頃に中国に渡り漢訳された。その際、力較べを意味する「ゴタパラ」という言葉に「相撲」という漢字が当てられた。他にも力較べを意味する言葉はあったのだが、格闘技を意味する言葉ではなかった。そのため、それらと格闘技を区別するため、人と人が組み合う力較べが「相撲」になったと言われている。

古代~中世 2.始祖とされる野見宿禰

『古事記』に、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が、出雲にある伊那佐の小浜で力較べをし、建御雷神が相手を投げ倒して勝ったという記述がある。

また『日本書紀』には、垂仁天皇7年7月7日に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の力較べがあり、現在の相撲からは想像もつかないほど荒っぽい死闘のすえ、宿禰が蹴速のアバラ骨を蹴り折って殺したと書かれている。そして、この宿禰と蹴速の闘いこそが、日本の相撲の始まりと言われている。
相撲の始祖である宿禰と蹴速をまつった社、すなわち宿禰神社や蹴速神社は各地にあるが、両者や前述の建御雷神などは神話の域を出ない。

史実からみると皇極天皇1年(642)に百済の使者をもてなすため、健児(ちからひと)に相撲を取らせたことや、天武天皇11年(682)に大隈の隼人(はやひと)と阿多の隼人に相撲を取らせたという記録がある。隼人は「はやと」とも呼ばれる南九州の部族。勇猛果敢であったことから、都で重用され、宮中警護をしたり歌舞や相撲を披露していたという。

古代~中世 3.豊作を祈願する相撲

神亀2年(725)、全国的な凶作を鎮めるために、聖武天皇は21カ所の大社に勅使を派遣して神の加護を祈念した。すると翌年は大豊作。感謝を表すために各社の神前で奉納相撲を行った。現在でも神事相撲は盛んで、島根の出雲大社を始め、建御雷神を祀る鹿島神宮や建御名方神を祀る諏訪大社など、全国の主だった神社で奉納相撲が行われている。
庶民の間では、近隣の村と較べてどちらが豊作かを占うため、村の力自慢を闘わせて、その勝敗で豊凶を占うという風習があった。秋になり実際に豊作が叶ったときは、感謝の意をこめて奉納相撲も行った。こうした豊作祈願を込めた村相撲は、古くから全国各地で行われていた。
目に見えない稲の精霊と相撲を取り、最後に人間が負かされ、自然の力を称えるという愛媛県越智郡大三島町の「一人角力」や、田んぼの中で取り組み体に泥がたくさんつけば一家の豊作と健康に恵まれるという奈良県桜井市の「どろんこ相撲」など、変わったものもある。

古代~中世 4.聖武天皇の七夕祭り

天平6年(734)7月7日、聖武天皇は宿禰、蹶速の故事にちなみ七夕祭りの余興として宮中紫宸殿の庭で相撲大会を催した。これが天覧相撲の起源となり、七夕の節会には欠かせない行事となっている。聖武天皇はまた、このとき近江の国の相撲名人・志賀清林に命じて競技規則も作らせている。足蹴り、拳突き、殴りの三手が禁じたもので、その骨子は今日まで脈々と受け継がれている。
平安時代になると次第に制度諸式を整え、規模も大きくなり、神事としての性格はますます色濃くなる。弘仁年間(810~824)には国家の安泰祈願、農作物の豊凶を占う行事として『内裏式』の中に定められ、相撲節(すまいのせち)という独立した儀式となる。
相撲節には、全国から屈強な者を集め、後に兵士として用いようという目論みもあったようだ。

古代~中世 5.「筆頭」だった在原業平

歌人としてだけでなく、希代の色男としても名を残す在原業平だが、相撲の強さもなかなかだったようだ。『大鏡』という平安時代の歴史書によると、「宇多天皇が王侍従だった頃、業平と相撲を取って勢いあまって椅子の肘かけを折ってしまった」とある。召合(めしあい)と呼ばれる1日だけの相撲儀式は数ヶ月前から準備され、運営は皇族や貴族など五位以上の高官によって行われた。総監督である相撲司には多くの場合、親王が任命され、在原業平も三位の筆頭として右相撲司に任命されたことがある。

半ば強制的に集められた相撲人は左右どちらかの近衛府に所属し、各府の高官が強弱を決める。最強者を最手(ほて)、次位を脇(後の関脇に相当)など、強い順の名簿(番付と取組表)が17番まで作られた。立合(たちあわせ)が、今でいう呼び出しのように進行役を務め、土俵はなく広い相撲場の中央で行われた。勝敗は左右に控えている近衛次将が判断するが、勝負がもつれたときは出居という審判役に意見を申し立て、それでも決まらない場合は天皇が裁定を下した。誰も異議を唱えられない「天判」だ。
左近府は葵の造花、右近府は夕顔の造花を髪に差して出場。勝った相撲人は、勝利にあやかるように次の出場者にその花を付けた。現在の力水と似ている。あるいは、土俵に向かう通路を花道と呼ぶのはこのため、という説もある。

古代~中世 6.皇位をかけた大一番

「源平盛衰記」には相撲で皇位を決定した話がある。文徳天皇(850~858)の時、第一王子惟喬(これたか)親王と第4皇子惟仁(これひと)親王が皇位継承権をめぐり争った。惟喬親王は紀名虎(きのなとら)を、惟仁親王は伴善雄(とものよしお)を代表とし、相撲で勝負をした。勝負は善雄の勝ちで、惟仁親王は清和天皇となった。清和天皇は源氏の祖となるのだが、この話は正史には出てこず「源平盛衰記」ならではの作り話かもしれない。
国宝にもなっている「伴大納言絵巻」の伴大納言とは伴善雄のことで、この絵巻には応天門の変をめぐる陰謀で流罪にされるまでの物語が描かれているのだが、大一番に勝った末路は哀れだったようだ。
宮中相撲は現在の相撲にとって大きな意味を持つ。相手を死にいたらしめる技は禁じ、相撲そのものを洗練し、基本的な形態を形成した。

古代~中世 7.曾我兄弟の仇討ちの発端

安元2年(1176)伊豆に流されていた源頼朝の退屈を慰めるために、伊豆、相模、駿河の三国の武士達は天城山中で狩猟を行い、赤沢山柏崎で酒宴を催した。その余興として工藤祐経の部下、力自慢で21人を投げ飛ばした俣野五郎景久。挑戦者は伊東の領主、伊東次郎祐親の嫡子河津三郎祐泰。熱戦の末に河津が俣野を投げ倒し勝敗は着いたのだが、この勝負を恨んだ工藤は部下に命じて河津を暗殺、これが曾我十郎、五郎の復讐劇となり、能や狂言、歌舞伎で有名な曾我兄弟の敵討ちの発端となる。
「曾我物語」には「河津掛け」は河津ではなく俣野が掛けたとされているが、なぜ「俣野掛け」ではなく「河津掛け」になったかといえば、江戸時代中期に普及した相撲四十八手に「蛙掛け」があり、芝居好きの江戸っ子が語呂合わせで洒落たのが真相らしい。
武士を賞賛するときは「弓馬、相撲に達し膂力人に超ゆ」といわれたほど武家の間に相撲は完全に定着し、欠くことのできないものになった。

古代~中世 8.織田信長は相撲狂

元亀元年(1570)~天正9年(1581)までに度々相撲大会を催したり、安土城などに1500人もの相撲人を集め大規模な上覧相撲を開催したりと、織田信長の相撲好きは広く知られていた。江戸時代中期の行司が書いた文献には、信長は相撲にとって重要な土俵を考案したとされており、信長は相撲史上において高く評価されている。
もっとも、相撲の歴史と行事の家柄に箔をつけるための創作ともいわれ事実ははっきりしないが、大の相撲好きでアイデアマンの信長が相撲大会開催時に、いろいろと細かい規則の決定や勝負を明確にするために努力していたことは明らかである。
延宝・天和年間(1673~83)頃に俵を地面に置いただけの土俵の相撲絵画が現れ始める。現在の土俵のようになるのは享保年間(1716~35)になる。土俵の考案により舞台と観客席の区別がはっきりして、相撲の娯楽化、職業化に拍車がかかる。

古代~中世 9.な、なんと相撲禁止令

戦国期の動乱も終焉すると、職を無くした浪人者を交えた職業的力士集団が各地で生まれ、都市部の盛り場で勧進相撲が盛んになる。寄進を勧める為の勧進相撲だが次第に力士自身の生活のための興業に変化し、投げ銭目当ての辻相撲や見世物小屋のような営利目的の相撲も発達する。
このような興業は度々けんか騒ぎを起こし、風紀を乱すなどと弾圧された。幕府は慶安元年から享保5年(1648~1720)の間に数回の相撲禁止令を出し、辻相撲はもちろん勧進相撲までも厳しく取り締まった。盛り場では監視の目を盗み辻相撲を行っていたが、やがて生活に困窮した相撲集団は相撲作法を作り決め手を制定、土俵を整え興業許可を求めた。
貞亨元年(1684)相撲集団を取り締まる責任者(京坂では頭取、江戸では年寄)が町奉行に願い出て、公許勧進相撲の許可を得た。

古代~中世 10.復興した勧進相撲

元禄時代(1688~1704)に京坂を中心に勧進相撲が盛大に復興した。この頃に番付が制度として成立。当初は板に書かれて、盛り場の辻などに立てられていたが、享保2年(1717)、東西別々に書いた二枚組の横番付が初めて紙に刷られて発行された。宝暦7年(1757)10月冬場所には、新興の江戸相撲が相撲の中心であった京坂への対抗意識から、新しく縦一枚で東西に分ける番付を考案した。
江戸相撲は京坂相撲に迎えてもらえない二流どころだったが、江戸が大都市へと成長すると、東北の力士も吸収し力をつけていき京坂へと上っていった。寛保3年から番付の四股名の上に「江戸」と頭書するようになった。
宝暦・明和(1751~72)、興業や巡業の運営は全国的な組織化を見せ、年功力士は年寄となり相撲部屋を経営、新たな力士育成を始めるなど現在の相撲協会にあたる相撲会所の制度が整い始めた。

江戸時代 1.スター誕生!谷風・小野川の黄金時代

天明・寛政(1781~1801)になると相撲の勢力は京坂から江戸へと移る。首都としての機能を高めたことや、京坂の部屋に所属していても江戸の年寄に弟子入りして、江戸相撲に参加できるようになったからである。江戸が相撲の中心になると組織も全国的になり、東西の力士交流も盛んになった。そして谷風、小野川の活躍により黄金時代を迎える。
寛延3年(1750)現在の宮城県仙台市で生まれた谷風梶之助は、達ヶ関の四股名で明和6年(1769)春に江戸へ出て、その春場所からいきなり西の大関に付け出された。安永5年(1776)谷風の四股名を襲名。
宝暦8年(1758)現在の滋賀県大津市で生まれた小野川喜三郎は、京都相撲から大阪相撲へ移り安永8年(1779)谷風の強豪ぶりを聞き、江戸に下り東の幕下筆頭に付け出される。
天明2年(1782)二月春場所、安永7年(1778)から5年間土付かずで63連勝中の谷風と新進の小野川の対戦となる。小野川はこれまで3戦ともまるで歯が立たなかった谷風を小股すくいで倒してしまい、156年間破られることはなかった連勝記録をストップさせた。これで自信をつけた小野川は、

江戸時代 2.横綱免許の発祥

寛政元年(1789)、江戸深川八幡宮境内での11月場所7日目、谷風、小野川に横綱伝授式が行われた。横綱免許を与える形式では史上初の横綱ということになる。というのも、様々な文献などによるとこの二人以前に、明石志賀之介、綾川五郎次、丸山権太左衛門の3人の横綱がいるからだ。
明治28年(1895)元横綱陣幕は、東京深川八幡宮境内に「横綱力士碑」を建てる寄付を集めることになり、歴代横綱の一覧表を作成した。横綱を地位として認識し代数をつけた時に明石を初代、綾川を2代、丸山を3代とした。しかし資料も乏しく明石などは実在すら疑われ、吉田司家は谷風、小野川の横綱土俵入りの許可申請する時に、綾川、丸山の記録は消失したという文書を提出。この文書が横綱代の数根拠として使われたが、幕府の許可を得るための方便という可能性も高く、谷風を初代横綱とするべしという意見もある。
肥後細川家の家臣、吉田追風は特に選ばれた強豪力士に「一人土俵入り」をやらせるための横綱免許を考案。その最初の横綱免許が谷風、小野川のそれである。吉田家はこれをきっかけに全国の力士、行司を統制していく力をもち、寛政3年(1791)6月吉田家は相撲司家として正式にお上に認められた。

江戸時代 3.上覧相撲という伝統

大名が力士を抱えるというのは戦国時代からあったことで、江戸時代初期に相撲禁止令が出される前は、競って力士を集め相撲衆と呼ばれる家臣として取り立てた。しかし相撲禁止令が出されると大名たちの相撲熱は下火になってしまうが、勧進相撲の復興すると各藩内で職業力士の要請や他国の有名力士をスカウトしたり、相撲興行の時にお抱え力士をレンタルするなど、強豪力士を多く抱えることをステータスとしはじめる。
江戸相撲が発展していくと、東西の力士交流も盛んになり、三役・幕内・幕下上位は江戸で春冬の2回、京都・大阪では各2回の定場所土俵に上がるようになった。
上覧相撲の開催は相撲人気をあおり、江戸庶民の楽しみとして定着、力士たちは人気と尊敬を集めていた。

江戸時代 4.雷電~史上最強の大関

寛政7年(1795)1月天下無敵の谷風が流感により現役のまま死去。人々は名力士の死を悲しみ、この流感を「タニカゼ」と呼び恐れた。谷風の死去により小野川の天下と誰もが思ったが、新たに相撲史上最強力士といわれる雷電為右衛門というライバルが現れた。
明和4年(1767)現在の長野県小県郡に生まれる。17歳の時に巡業にきた浦風に弟子入り、寛政2年(1790)11月関脇として付け出され、初土俵で小野川を投げ飛ばし優勝するという快挙。幕内21年間32場所のうち負けたのは10回だけで、文化8年(1811)に44歳で引退するまで、11人の大関を向こうにまわして戦ったが、11人目の柏戸にたった1回破れただけである。優勝26回、勝率9割6分2厘という驚異的な強さ、張り手や鉄砲、閂などは特に恐れられ禁じ手とされてしまうが、それでも勝ちつづけたのである。
雷電に横綱の称号が与えれれなかったのは相撲史上の最大の謎だが、当時は土俵入りするためだけの免許で、雷電にとってはあまり意味が無かったからかもしれない。「横綱力士碑」には歴代横綱の名とともに「無類力士」として雷電の名も刻まれている。酒豪で豪傑、文武両道とまさに天下無敵の名にふさわしい存在だった。

江戸時代 5.「待った」の阿武松

寛政3年(1791)現在の石川県鳳至郡に生まれた阿武松緑之介は、幼い頃に板橋のこんにゃく屋に奉公し、25歳の時に武隅部屋に弟子入り。文政5年(1822)10月入幕、同9年10月には大関になった。同10年には長州藩毛利家のお抱え力士となり、「阿武の松原」の名を取り阿武松と改め、同11年2月には39年ぶりに横綱を免許された。
小柄で慎重な取り口、風格のある相撲ぶり、こんにゃく屋の下男から横綱にまで上りつめたことで「今太閤」ともてはやされ、人気も得た。
文政13年の上覧相撲で7代横綱稲妻と対戦。勝負には勝ったものの、気の弱い阿武松は普段から「待った」が多く、ここでも「待った」をして評判を落としてしまう。おかげで「ちょっと待った」というと「阿武松じゃあるまいし」という掛け合いが流行してしまう。

江戸時代 6.風流の人 稲妻

寛政7年(1795)現在の茨城県稲敷郡に生まれた稲妻雷五郎は、文政4年(1821)に佐渡ヶ嶽部屋に入門。同7年10月入幕後、関脇までの6場所で優勝3回とわずか4敗で同11年10月に大関になる。京都五条家から横綱を免許されるが吉田司家から物言いがつき同13年改めて免許された。
怪力の持ち主としても知られ、片手で重い火鉢を持ち上げ、煙管に火をつけた話や、ほうびの4斗樽を両手にぶら下げて退出した話も有名である。
もちろん書や俳句をたしなむ風流人としても名をはせ、相撲に対しての真摯な思いや、相撲道はいかなるものかを表した「相撲訓」は後世に伝えられた。明治10年(1877)、「稲妻の去りゆく空や秋の風」という辞世の句を残し、82歳で亡くなった。

江戸時代 7.「め組」のけんか

力士とけんかをしようなどと考える者はまずいない、が講談や芝居で有名な「め組のけんか」事件の鳶の富士松は例外である。富士松は顔で相撲場に入ろうとして断られたことを恨み、仲間の辰五郎、長次郎と香具師芝居見物にきた力士、九龍山にけんかを売り長次郎が半鐘を鳴らし仲間を集めて大乱闘になる。騒動を聞いた力士の四ツ車、藤ノ戸は人足ら十数名を叩きのめす大活躍をみせたのが文化2年(1805)2月16日。
相撲界所が寺社奉行に訴えれば、め組は町奉行に訴える。9月までかかった取調べの結果軍配は力士側に上がったが、九龍山は江戸追放、富士松は牢内で死亡した。
この騒ぎのため春場所は翌日から中止、6月に8日目の取組から再開した。

江戸時代 8.苦労人 不知火

享和元年(1801)不知火諾右衛門は現在の熊本県宇土市に生まれた。父の職を継ぎ役人をしていたが持ち前の怪力が災いし、人を傷つけ故郷にいられなくなり妻子を残したまま大阪相撲へと身を投じる。
一度は大関まで登りつめたものの、29歳のときに江戸に下り36歳で入幕、再び大関になったのが38歳。天保11年(1840)濃錦里を不知火諾右衛門に改め横綱を免許された。
恩義に厚い不知火は引退後大阪に戻り旧師の湊の後を継ぎ多くの門弟を育てた。不知火を名乗る力士は江戸時代に4人いたが8代横綱の不知火諾右衛門を初代不知火とよんでいる。

江戸時代 9.小兵の秀ノ山

文化5年(1808)現在の宮城県気仙沼市、半農半漁の家に後の9代横綱秀ノ山雷五郎は生まれた。15歳のときに力士を志すが小兵ゆえに入門できず、19歳でようやく弟子入りし、33歳で大関昇進、37歳で横綱を免許された。
歴代横綱の中でももっとも短身アンコ型、風貌に似合わぬ強さで人気があった。引退後は年寄秀ノ山三代目として名横綱陣幕を育てる。
秀ノ山のライバル東大関剣山は、土俵入りが下手で風采もよくないといって横綱を断り秀ノ山に譲ったというが、この頃になっても横綱は土俵入りをするための存在でしかなく、横綱免許のきっかけは将軍上覧相撲の開催であった。

江戸時代 10.客寄せのための看板力士

巨人力士、池月鯨太左衛門と大空武左衛門は身長が約227センチ以上もあったという。二人とも相撲は取らず土俵入りを見せるだけであった。釈迦ヶ嶽雲右衛門はちゃんと相撲も取り、優勝相当の記録を残している。
大童山文五郎は数えで6歳、体重80キロ以上もあり土俵入りを見せるだけの存在だったが、17歳になって実力で土俵に上がるもぱっとせず、24歳で引退した。
池月鯨太左衛門は25歳で、釈迦ヶ嶽雲右衛門は27歳で亡くなっている。相撲人気は強豪力士達の存在だけが盛り上げたものではなく、見世物に徹した力士達の存在も忘れてはいけない。

江戸時代 11.土俵入りの二つの型

横綱土俵入りには雲龍型、不知火型がある。10代横綱雲龍久吉、11代横綱不知火光右衛門の型が素晴らしく後世に伝えられたといわれている。
型が定まったのは昭和に入ってからで、羽黒山が36代横綱になったときに太刀山の型を受け継いだ土俵入りをし、それを見た相撲研究家が不知火型だと決め付け、それ以外はすべて雲龍型とされてしまった。しかし原型である太刀山は雲龍型だと言い、雲龍型といわれている二代目梅ヶ谷は不知型を元にしているという。
実は雲龍型が不知火型、不知火型が雲龍型という可能性もあるが、肝腎の二人の土俵入りに関する資料では推定も出来ず、現状の呼称のままである。

江戸時代 12.幕末の「負けずや」陣幕

12代横綱陣幕久五郎は安政5年(1858)に入幕し慶応3年(1867)に横綱免許、後2場所で全勝しながらも引退して大阪相撲総長として大阪相撲を東京相撲から独立させた。
土俵入りのためだけの横綱が最高位として扱われるようになったのは陣幕の建碑運動によるものだ。陣幕は横綱力士碑を建立するために歴代横綱一覧表を作成した。それは寄付金集めのためのチラシだったが、それによって後世の横綱は時代を象徴する存在となった。
陣幕は幕内時代に黒星が5個しかなく9割4分6厘という高勝率で「負けずやの陣幕」と呼ばれていた。

江戸時代 13.ペリーの度肝を抜く小柳

嘉永6年(1853)浦賀沖に黒船来航。この時は幕府も混乱したが一週間ほどで黒船は去った。翌年再び黒船が訪れた時、幕府は日本人の力を誇示するためにアメリカ人に相撲を見せることにした。
大関小柳、鏡岩、関脇常山、小結雲龍以下30数名を向かわせ、ペリー一行への贈り物である米俵を運び込む手伝いをした。水兵達は2~3人がかりで1俵運んでいたが、力士達は1人で2~3俵を軽々と運び一行を驚かせた。
土俵入りのあと、ぶつかり稽古で巨体同士が激しくぶつかり合う様を見てペリーは震えあがったという。最後に小柳常吉と水兵達の対戦で、レスリングとボクシングの選手3名との1対3の戦いはそれぞれを差し上げ、小脇に抱え、踏みつけた小柳の圧勝だった。

明治時代 1.文明開化の相撲禁止論

明治維新により廃藩置県が行われ、大名が消滅した。大名の元で庇護を受けていた力士達は経済的独立を図るのに必死だったが、東京も火の消えたような状態で、人々はとても相撲見物をする気にはなれなかった。
相撲界は明治新政府に協力的な態度を取っていたが、新政府の態度は冷酷で、相撲のような野蛮なものは禁止すべきという風潮にもなった。明治4年の断髪令は力士達にとって屈辱でしかなかったが、相撲に理解を示す政府高官の尽力で力士のまげはなんとか守られた。
孤立無援に思われた相撲界が生き残れたのは伊藤博文、黒田清隆、後藤象二郎、板垣退助ら、相撲好きであった政治家達の弁護によるものであった。

明治時代 2.力士の火消し

相撲界は生き残りをかけた新しい試みを行った。まず観客層の拡大を考え、明治5年(1872)本場所2日目以降の相撲見物を女性に許した。明治10年(1877)には初日からの見物もできるようになった。
力士も世の中の役に立つと示すために板垣退助らの入れ知恵もあり火消し隊を組織する。明治9年(1876)に政府に出願したが、体の大きい力士は消防活動に不適当と許可を出さなかった。再三の願い出に政府は1度試験をすることにした。
試験の結果、幕下、三段目の力士36名からなる消防別手組が誕生。火事のたびに出場し活躍を見せていたのだが巡業に出る暇がなくなり、明治11年(1878)に解散することになった。

明治時代 3.京阪相撲の独立

明治維新の廃藩置県により大名の庇護を失った東京相撲だが、逆に独立集団として自由を得たのが京阪相撲だった。明治になると不景気な東京よりも京阪のほうが人気が高くなっていが、その大阪相撲復興に一役買ったのが「負けずや陣幕」だった。
陣幕は大阪相撲会所の頭取として総長になり、東西二枚横番付を江戸のように縦一枚番付にするなど大阪相撲の改革を行った。それに影響されて提携関係にあった京都相撲も人気が高まっていき、江戸相撲より分離独立して急成長した京阪相撲は明治の初めに江戸相撲を凌駕するまでになった。
しかし世の中の安定とともに東京相撲が復興してくると、強豪力士達は東京相撲に加入していき、京阪相撲は次第に勢いを失っていった。

明治時代 4.高砂浦五郎の改革

新時代の到来は力士達に経済的な不安などをもたらした。年二回の相撲興業も何とか行えているくらいで、相撲は時代の波に押されて衰退の道を静かに歩んでいた。そんな無能無策の相撲会所に業を煮やし、明治6年(1873)に改革を叫んだのが前頭筆頭の高砂浦五郎だった。
相撲会所はそんな高砂を意見の衝突から除名したが、高砂は不満をもっていたほかの力士達とともに改正相撲組という集団を結成し名古屋で旗揚げをした。明治11年(1878)新旧抗争は警視庁の調停により高砂の東京相撲会所復帰という形で終結した。
復帰した高砂は東京相撲の実権を握り、旧態依然としていた弊害を改革していき、明治17年(1884)に行った天覧相撲は、衰退しつつあった相撲人気に火をつけて復興の道を開いた。明治22年(1889)東京相撲会所は東京大角力協会と名を改め、協会取締に就任したのは高砂であった。高砂は相撲の規則制定や組織・制度を整備して相撲の近代化に努めた。

明治時代 5.朝日嶽の美男と美談

朝日嶽鶴之助は明治初期に「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほど(容姿)のよいのが朝日嶽」と歌われるほど美男力士として人気があった。13歳のときにその怪力ぶりを認められて力士を志し、文久2年(1862)幕下の朝日嶽は庄内藩のお抱え力士となった。慶応4年(1868)6月に入幕したが4日目から休場し、翌明治元年11月場所は全休した。
朝日嶽はこの時、官軍に反抗した庄内藩の急を知り、酒井候のご恩に報いようと包囲網をかいくぐって庄内へと向かったのだが、既に庄内藩は官軍に従うことになっていた。翌年4月場所で土俵に復帰した朝日嶽だが、庄内行きの事が徳川びいきの江戸っ子達に美談として伝わっていき、一躍人気者になった。
明治10年(1877)には大関昇進を果たし故郷に錦を飾り、翌年には山形県内だけの横綱免許まで許してもらっていた。しかし明治15年(1882)に病で亡くなってしまう。人々の信頼と尊敬を集めた彼は早すぎる死を惜しまれていた。

明治時代 6.梅ヶ谷と天覧相撲

明治17年(1884)の天覧相撲に先立ち五条家、吉田司家の両家より同時に横綱免許を許された「大雷」と呼ばれた初代梅ヶ谷藤太郎が現れた。しかし梅ヶ谷は化粧まわしを用意する時間も余裕も無く一度は断ったのだが、それを聞いた伊藤博文は以前からひいきにしていた梅ヶ谷ために金の工面をして、1月足らずで化粧まわしをつくらせて天覧相撲に間に合わせたという。
天覧相撲は明治の相撲復興に大きな力となった。天覧相撲で梅ヶ谷が大達を相手に見せた壮絶な死闘が噂となり梅ヶ谷はその名を天下にとどろかせた。明治18年(1885)5月に引退、年寄の名門雷権太夫を継ぎ、明治22年(1889)には東京角力協会設立時に高砂浦五郎とともに協会取締に就任した。
雷は行司の装束を裃から烏帽子・直垂に改めたり、幕内力士の場所入りに羽織・袴を着用義務をさせた。明治42年(1909)の両国国技館建設にも雷の働きが大きかった。大正4年(1915)養子の二代目梅ヶ谷が引退すると雷の名を譲り、相撲界から退いたが人々から「大雷」と呼ばれ業績を称えられた。

明治時代 7.反逆児 大達

梅ヶ谷と死闘を繰り広げた大達は、脚光を浴びた梅ヶ谷とは対照的に権力者の横暴により波乱な人生を歩んでいった。師匠の高砂は無敵と謳われた梅ヶ谷に土をつけるほどの実力がある大達よりも先に、成績の劣る西ノ海を大関へ昇進させてしまう。そのことに反抗した大達を破門してしまった。
そんな高砂の横暴を憎んだ伊勢ノ海は大達を引き取って明治19年(1886)1月に大関昇進させた。しかし高砂も黙ってはいなく、大達の悪口を天下に広めようとした。そのため横綱免許を受ける実力を持ちながら、名誉に浴することも出来ずに相撲人生を終えた。
晩年は大酒がたたり内臓を病み平幕にまで落ちたこともあった。実力が認められない怒りや憤りが、大達に酒を飲ませたのだろうか。

明治時代 8.西ノ海のわがまま

大関の上は横綱、現在ではあたり前の番付なのだが実は以外に歴史が浅い。明治23年(1890)5月場所に四人の大関が登場した事がきっかけとなっている。
以前は東西に大関は一人ずつという原則があり、大関が四人になり仕方なく張出大関をつくることにして、先場所で成績が振るわなかった西ノ海を張出大関に据えたのだが、その西ノ海と師匠の高砂から協会に対して猛烈な抗議があった。
西ノ海はもちろん、師匠の高砂は協会のボスでもあり、二人を敵に回すことは出来ずに苦肉の策として横綱の名で番付に載せることになった。明治42年(1909)には相撲界の最高位として協会も認め、協会規則に明文化した。西ノ海のわがままから生まれた横綱とはいえ、もし納得していたら番付に横綱の名称が載るのはいつになったのだろうか。

明治時代 9.中村楼事件

以前は相撲会所の改革を叫ぶなど相撲界への貢献が高かった高砂浦五郎は、東京大角力協会の取締になり、東京相撲を手中におさめる独裁者となっていた。明治24年(1891)には一門系統の年寄を言いくるめて永久取締りを宣言するが、他の年寄である雷、尾車、友綱らの反対を受け宣言を撤回させた。
明治28年5月場所では、西ノ海と鳳凰の取組に物言いをつけて自分の弟子である西ノ海の肩を持ち傍若無人ぶりを見せつけた。翌年1月場所で発表された番付に高砂系で占められている東方に鳳凰が回されていたが、鳳凰はもちろん西方の力士も納得せず11日の初日になっても場所入りしないので、強風を理由に閉場となった。
15日には西方大関の大戸平以下33人は高砂独裁体制改革を要求し、17日には雷ら年寄は1月場所終了後に着手、5月場所より実行すると回答した。18日には両国中村楼にて手打式を行い19日から1月場所所初日となったが、西ノ海は休場でそのまま引退した。2月には協会規定を大幅に改正して70条の申合規約が発表された。

明治時代 10.風雲時 小錦

小錦八十吉(本名岩井八十吉)は慶応2年(1866)千葉県山武郡に生まれた。14歳のときに父親の勧めで響矢(後の2代高砂)に預けられるが、修行のつらさに逃げ帰ってしまう。
16歳で再入門して明治21年(1888)5月に入幕。スピードのある相撲で快進撃を続け23年5月には、わずか23歳で関脇を越えて大関昇進して、29年3月に横綱免許を受けた。小錦は風雲児と呼ぶにふさわしい存在だった。
小柄でアンコ型、色白で美男子の小錦は「狂える白象」と称されて一枚絵の錦絵が飛ぶように売れた。

明治時代 11.巨人横綱 大砲

明治2年(1869)宮城県白石市郊外の農家に生まれた大砲万右衛門(本名角張万次)は14、5歳の頃には大人が見上げるほどの大男だったという。
18年に尾車部屋へ入門し、25年5月に入幕。32年5月には大関昇進を果たし、34年4月に横綱免許を受けた。一進一退を繰り返しながらも確実に階段を上っていった。
しかし巨人力士はどうしても動きの鈍い所があり、怪力に頼ることも多く引き分けが多くなった。横綱になってからの引き分け率は40.3%にもなり、最終場所の40年5月には9日間全て引き分けてしまい、「横綱ではなく分け綱だ」と世間をあきれさせた。

明治時代 12.常陸山で相撲人気爆発

日清・日露戦争に勝った日本は国粋主義感情が高まり国技としての相撲の人気が高まってきた。その立役者が19代横綱常陸山谷右衛門と、好敵手の20代横綱梅ヶ谷藤太郎である。
24年に弟子入り、25年に御西山と名乗り初土俵を踏んだ。27年には師匠の名を継ぎ常陸山と改名するが、女性問題で師匠と気まずくなった為28年夏の巡業中に脱走して名古屋相撲へもぐりこんだ。後に大阪相撲へ移った常陸山は別人のような強さを見せ、東京へ帰るよう進められた。30年5月には出羽海部屋へ復帰を許されて再起して、33年5月に関脇、34年5月に大関へと躍進した。
明治40年には相撲普及のために渡米、米大統領を表敬訪問するなど「裸の大使」としての役目や国技館建設、弟子の育成に尽力した。大正11年、48歳の若さで亡くなったときに功績を称えられ協会初の「協会葬」で送られた。

明治時代 13.好敵手 梅ヶ谷の登場

13歳のときに巡業中の大関剣山にその才能を見いだされ、師匠である雷(初代梅ヶ谷)の養子となり英才教育を受けたのが梅ヶ谷藤太郎である。31年1月に入幕してから32年5月に関脇昇進、33年5月には大関昇進とその才能を見せつけた。
明治36年5月場所千秋楽には常陸山との全勝対決に望んだ。日本中の注目を集めたこの取組は仕切り直しをなんと10回もした。白熱した戦いは常陸山が力で圧倒して4回目の優勝をした。負けたとはいえ梅ヶ谷の評価は高く、場所後には常陸山とともに横綱へ推挙された。
梅ヶ谷の横綱推挙は常陸山が「梅ヶ谷と同時推挙がのぞましい」という発言で協会を動かして実現した。両者の対戦成績は7勝3敗5分で常陸山に分があるが、それでも常陸山にとっての好敵手は梅ヶ谷以外はいないだろう。

明治時代 14.相撲の殿堂「国技館」誕生

当時の相撲巡業は小屋掛け天幕張りの晴天10日興業で、江戸時代から変わっておらず天候に左右されると打ち切りになっていた。明治35年には相撲常設館の建設が叫ばれ始めた。
建設計画は39年1月場所後から具体的になり、42年6月2日、天皇をはじめそうそうたる人々を迎えて、両国の回向院境内に日本初のドーム式円形建築で造られた国技館の開館式を行った。国技館の完成により、天候を気にすることもなく興業を行えるようになった上に、観客の収容人数も増えて大衆の人気を不動のものとした。
しかし国技館にも激動の歴史がある。大正6年に失火で焼失、9年に再建されるが十二年9月の関東大震災で全焼する。昭和20年になると空襲により被災、戦後は占領軍に接収された。29年には蔵前に座を奪われて、国技館が両国に戻ってこれたのはなんと31年後の昭和60年になってからである。

明治時代 15.新橋倶楽部事件

明治29年中村楼事件は独裁に対する抗議運動だったが、明治44年新橋倶楽部事件は力士たちの待遇改善を求めた造反である。
力士たちは関脇以下十両以上で、独立興行を目指すことになり、新橋倶楽部に籠城し玉突き場を改築して土俵を築き稽古を開始する。思わぬ展開にあわてた協会は警視総監の調停によって力士たちと再度交渉し、待遇改善の約束を結ぶ。
この騒動の産物として、引退力士に対する養老金支給の道がはじめて開かれたのである。

明治時代 16.「45日」の太刀山の鉄砲

太刀山峰右衛門は明治10年、現在の富山県富山市呉羽町に生まれ、幼いころから怪力ぶりを発揮し、21歳の時に巡業中の友網親方に見出され、角界入りを勧められるが本人その気はなかったが、板垣退助の説得によりやむなく友網部屋に入門した。
全盛時代の太刀山は四肢が理想的に発達した体型で、とくに突っ張りの破壊力がすさまじく、その一突き半で相手を土俵から突き飛ばしたことから、「45日の鉄砲」と呼ばれた。
幕内在位31場所、195勝27敗15分という立派な成績を残した太刀山は大正7年に引退、年寄東関を襲名した。しかし翌年、勝負検査役の選挙に落選しその後のいざこざから角界に嫌気がさして、門弟を三代高砂に託して廃業した。波乱に満ちた明治の相撲界が生んだ最強無敵の力士であった。

明治時代 17.悲運のライバル駒ヶ嶽

常陸山に梅ヶ谷というライバルがいたように、太刀山にも駒ヶ嶽というライバルがいた。太刀山と駒ヶ嶽のライバル関係は「梅常陸時代」といったような言葉でよばれることはなかった。
駒ヶ嶽は身長188センチ、体重135キロという巨体の持ち主で、一時、太刀山とは互角に渡りあい、早くから横綱を期待されていた。
しかし、駒ヶ嶽には大の苦手としていた緑嶋がいた。巨体に似合わぬ小心者の駒ヶ嶽は、大事な一番でたびたび不覚をとられ、痛い思いをさせられた。そのたびに落ち込みくやしさを酒でまぎらわすようになり、次第に心も生活も荒れ、凋落の一途をたどった。

大正時代 1.ケンケン横綱 鳳

相手の内股に足を入れて掛け、跳ね上げながら投げる技「掛け投げ」がある。この技を連続して行うと、ちょうど子供が石けり遊びの時などにケンケンの格好に似ているので、俗に「ケンケン」とよばれている。この「ケンケン」で横綱になった力士が24代横綱、鳳である。
鳳谷五郎は、当時の入門規定の16貫(約60キロ)に体重が満たず、4回目にようやくお情けで合格となり、宮城野部屋に入門した。この軽量でのちに横綱にまで昇進する鳳を支えでいたのは人の何倍もの猛稽古であった。その努力が実り、大正4年に二度目の優勝を全勝で飾り横綱に昇進した。
鳳の全盛期は大関時代で、得意技はすくい投げ、小手投げ、そして掛け投げで連続される掛け投げの鮮やかさは見るものに強烈な印象を与え「鳳のケンケン」は一世を風靡した。

大正時代 2.近代相撲の先駆者 大錦

相撲の取り口が変化した大正時代にあって、もっとも明確に相撲の近代化をはかったのが大錦であった。大錦は、当時の相撲界としては珍しいインテリ力士であった。それだけに入門のいきさつが変わっており、憧れの常陸山にローマ字で手紙を書いたところ、ローマ字で返事がきたので入門を決意したという。
明治43年1月に初土俵を踏み、大正4年1月に入幕してからがすごい。わずか2年、6場所の超スピード出世で26代横綱の免許を受ける。大錦はそれまでの力まかせの相撲ではなく、相手の動きを読んで理詰めで攻めていく相撲を取り、近代相撲の創始者、あるいは先駆者とよばれていた。
しかし大正12年1月、突然土俵を去る。まだ4、5年は取れるといわれたが、やむにやまない事情があった。これには「三河島事件」という改革事件がからんでいた。

大正時代 3.三河島事件

「角聖」とよばれた名横綱常陸山は引退後、出羽海親方として数多くの幕内力士を育て出羽一門を築いた人物であった。大正のはじめ、土俵は太刀山の独り天下の状態にあり、その太刀山をなんとか倒そうと出羽一門が期待をこめて送り出したのが栃木山であった。
栃木山は、18歳のとき常陸山に弟子入りし、明治44年1月に前相撲から大正4年1月の入幕まで、7場所をわずか3敗で突破というスピード出世を果たす。7年1月には27代横綱に推挙された。大正5年5月場所8日目、太刀山とぶつかり、実に4年ぶりに太刀山が黒星になった。
大正14年5月、栃木山は夏場所を前に突然引退する。人々は戸惑ったが、栃木山は「衰えて引退するよりいまが花のうちに引退するほうが潔い」と理由を語った。これには裏話があり、本当の理由は髪の毛が薄くなってしまい、まげが結えなくなってきたからだというのだ。栃木山の美学か、それとも薄くなった頭髪か、真実は定かではないが、体力の衰えが引退の理由ではなかったことは確かだ。

大正時代 4.名門出羽の救世主 栃木山

「角聖」とよばれた名横綱常陸山は引退後、出羽海親方として数多くの幕内力士を育て出羽一門を築いた人物であった。大正のはじめ、土俵は太刀山の独り天下の状態にあり、その太刀山をなんとか倒そうと出羽一門が期待をこめて送り出したのが栃木山であった。
栃木山は、18歳のとき常陸山に弟子入りし、明治44年1月に前相撲から大正4年1月の入幕まで、7場所をわずか3敗で突破というスピード出世を果たす。7年1月には27代横綱に推挙された。大正5年5月場所8日目、太刀山とぶつかり、実に4年ぶりに太刀山が黒星になった。
大正14年5月、栃木山は夏場所を前に突然引退する。人々は戸惑ったが、栃木山は「衰えて引退するよりいまが花のうちに引退するほうが潔い」と理由を語った。これには裏話があり、本当の理由は髪の毛が薄くなってしまい、まげが結えなくなってきたからだというのだ。栃木山の美学か、それとも薄くなった頭髪か、真実は定かではないが、体力の衰えが引退の理由ではなかったことは確かだ。

大正時代 5.華麗なる横綱 常ノ花

常ノ花は明治29年(1896)岡山県岡山市に生まれた。13歳のとき、大錦より一日遅れで出羽海部屋に入門する。初土俵は43年1月場所よりトントン拍子で出世し31代横綱に推挙された。
変わり身の早いスピード相撲を身につけ、やぐら投げや上手投げといった多彩で鮮やかな取り口を見せその土俵入りは「目もくらむほどのきらびやかさ」と評されるほどの華麗な横綱であった。10回の優勝を飾った常ノ花は、昭和5年5月場所で3敗目を喫すると、先輩の栃木山を見習って潔く引退した。
年寄藤島を襲名した直後、相撲界を揺るがす春秋園事件が起き、その収拾のため東奔西走の働きをし、どん底にあった相撲界を復活させた。

大正時代 6.出羽一門に立ち向かった男たち

「江戸っ子大関」として人気があったのが友網部屋の伊勢ノ浜慶太郎である。父親は明治10年代に活躍した伊勢ノ浜萩右衛門で、親子関取としても知られている。右を差せば怖いものなしで、「右差し百万石」といわれたのが高砂部屋の大関朝潮太郎である。
出羽一門に対して最大の強敵だったのが二十山部屋の大関千葉ヶ崎俊治である。出足の速い相撲で、吊り、上手投げを得意とし序ノ口以来不敗の栃木山に土をつけたことで一躍名を上げた。
角界随一の怪力といわれたのが陸奥部屋の関脇大潮又吉である。がむしゃらで強引な取り口で、大物を倒すかと思うと、下位力士にあっさり負けたりするところがあった。変化に富んだ取り口で、足癖を得意とし、業師とよばれたのが楯山部屋の関脇清瀬川敬之助である。

大正時代 7.天皇賜杯は東西のかけ橋

大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、両国国技館は全焼し混乱の極みのなかで東京相撲は経営難に苦しみ、衰退する相撲界にとどめを刺した。
東京と大阪の両角力協会の合併話は明治の末ごろから何度かあったのだが、そのたびに立ち消えとなっていた。
大正14年(1925)4月、東京協会は摂政宮殿下(のちの昭和天皇)から下賜された金一封をもとに、大阪造幣局に依頼して純銀製の優勝賜杯を作製する。これを機に、東西合併すべきではないかと大阪協会を説得し、同年7月に大阪において合併調印が行われた。12月には大日本相撲連盟協会を発足させ、そして、昭和2年(1927)1月、財団法人大日本相撲協会が設立され、大相撲は新たな時代へと突入していくのである。

昭和(戦前) 1.大巨人 出羽ヶ嶽

東西が合併した大日本相撲協会の発足によって、昭和の幕開けとともに新しい時代を迎えた相撲界に、救世主ともいうべき力士が登場する。沈滞した土俵に新風を吹き込んだのは名横綱でも、華麗な美男子でもなく、身長2メートルを超える巨人力士、出羽ヶ嶽であった。
身長203センチ、体重195キロという巨人力士で、その怪力はすさまじく、得意としたさば折りは恐るべき破壊力を誇っていた。大男の小さいもの好きか、小鳥を飼うのが大好きだった。体に似合わず手先も器用で、とくにカメラはプロ級の腕前だったという。
関脇までは順風満帆の出世ぶりであったが、不運にも脊椎を痛めてしまい、昭和14年5月場所を最後に引退した。

昭和(戦前) 2.ラジオ放送と春秋園事件

昭和3年、ラジオの中継放送が開始され、大相撲は全国的な大衆娯楽へと成長していくことになる。ラジオ放送開始にあたって、相撲協会はそれまで無制限であった仕切りに制限時間を導入する。
大日本相撲協会は、さまざまな新しい試みを導入して相撲の近代化をはかり、相撲人気を復興させようと努力したが、その足元をすくうような大事件が勃発する。それが「春秋園事件」、あるいは「天竜事件」とよばれる力士たちの反乱である。昭和7年1月6日、関脇の天竜が中心となり相撲道の改革を唱えて中華料理店「春秋園」に立てこもった。天竜らは新興力士団を結成し、鏡岩、朝潮らも革新力士団を結成してそれに賛同した。相撲界は前代未聞の危機に陥った。
しかし、翌8年1月、生活が苦しくなってきたことから、多数の有力力士が協会に復帰を願い出、協会はこれを歓迎し、別格として土俵に上げ協会は危機を脱することができた。一方、初志貫徹を叫ぶ天竜は同年2月に同士たちとともに関西相撲協会を結成するが、やはり時勢には勝てず6年間にわたる大騒動はこうして決着した。

昭和(戦前) 3名大関 清水川を生んだ父の死

昭和ひとけたは世界大恐慌から軍部の台頭、そして日中戦争へといたる不安で波乱に満ちた時代であった。そんな時代にふさわしいというか、このころに波乱の人生を送った清水川という力士がいた。清水川元吉は、二十山部屋に入門し天下一品の切れ味をもつ上手投げを武器に、めきめきと頭角を現した。
しかし、その人気ゆえに、酒、女にもおぼれた生活をしていた清水川は小結に上がりながら相撲協会から破門、除名処分という厳しい断を下される。まげを切ってようやく目が覚めた清水川はあらゆるつてを頼って協会に復帰を願い出たが、どうしても許されない。そんな息子の悩む姿を見るに見かねた父親は自殺して協会にわびを入れるという手段に出た。さすがに、これには協会も心を動かされ、清水川は復帰を許される。
父親の死という衝撃的な事件をきっかけにして、生まれ変わったように土俵に打ち込んだ清水川は、晩年は名大関として多くの人に親しまれた。土俵態度には古武士を思わせる風格があり、蛇が鎌首をもたげたような独特な仕切りは人気を呼んだ。

昭和(戦前) 4.フグに倒れた沖ツ海

将来を期待されながら不慮の死をとげた力士は何人もいる。もし、あの力士が生きていたら、その後の相撲界はどうなっていたのかわからない。そんなふうにいわれる力士の一人に沖ツ海がいる。沖ツ海は大阪の千田川部屋に入門したのち、若藤部屋に移る。身長182センチ、体重116キロという均整のとれた柔らかい体で、左四つからの下手投げにはたいへん威力があった。
昭和8年秋、大関を目前にした沖ツ海は巡業で訪れた山口県萩の名物のフグを食べ、中毒を起こしてあっけなく死んでしまう。まだ23歳の若さであった。「もし沖ツ海が生きていたら、双葉山の69連勝もなかったのでは」とまでいわれ、その早すぎる死を惜しんだ。
フグ中毒で亡くなった力士は意外と多い。大正の後期、派手な取り口で人気を集めた美男の関脇の福柳伊三郎もその一人である。大関候補にはフグは鬼門のようだ。

昭和(戦前) 5.錦絵のような玉錦

昭和ひとけたの土俵をおおいにわかし、昭和に入って初めての横綱となったのが玉錦三右衛門である。13歳で二所ノ関部屋に入門し、昭和4年1月に関脇で初優勝を飾り、同年5月には大関に昇進。同年10月場所から3場所連続優勝を果たし、横綱昇進は確実と思われていたが、日頃の粗暴な言動がたたって見送られる。
昭和7年10月、ようやく横綱免許となる。しかしこれも、常ノ花の引退後、横綱がいない場所が続いたという事情があったからこそである。身長173センチ、体重135キロの堂々たるアンコ型の体格で演じる横綱土俵入りは、「動く錦絵」という評判をとった。
入門規定にも達しなかった小さな体を克服するために猛稽古を繰り返し、年中生傷が絶えなかった。玉錦は二枚鑑札で二所ノ関部屋を継ぐのだが猛稽古は二所ノ関部屋の伝統となった。さらなる猛稽古に励んだ玉錦であったが、昭和13年、盲腸炎の為巡業先で亡くなった。

昭和(戦前) 6.悲劇の横綱 武蔵山

33代横綱武蔵山は、栃木山に次ぐスピード出世で話題になった。わずか7場所で入幕というそのスピードは「飛行機のよう」といわれた。15歳で出羽海部屋に入門し、早くからその才能を見込まれていた。
身長185センチ、体重116キロという筋骨隆々の体に抜群の腕力、足腰の強さを誇り、将来は歴史に残る大横綱になるのではと騒がれ、応援歌や機関紙まで出てくるほどの人気だった。
昭和10年5月に横綱免許を受けるが、以前痛めた右ひじが悪化し、横綱在位8場所中、皆勤わずかに1場所。それも7勝6敗というありさまで、まさに悲劇の横綱であった。

昭和(戦前) 7.引き立て役に終わった男女ノ川

「昭和の巨人横綱」といわれたのが34代横綱の男女ノ川である。男女ノ川は21歳に高砂部屋に入門し、故郷の男女ノ川を四股名にして初土俵を踏んだ。身長193センチ、体重154キロの巨体、怪力が注目を集め、一時は部屋ゆかりの四股名、朝潮を名乗った。
昭和7年の春秋園事件のときは協会から脱退し、錦洋らと革新力士団を組織したが、同年暮れには協会に復帰する。翌年の春場所には番付外幕内別席で出場し、昭和10年5月に大関、翌年1月には横綱免許を受けた。
全盛期には向かうところ敵なしといった強さを見せた男女ノ川だが、右足に関節炎という爆弾を抱えており、そのため晩年には稽古もろくに出来ず、下半身のもろさが目立った。横綱昇進後は二度も負け越すなど、さんざんな成績で、後進の双葉山に押され気味で、結局は引き立て役に終わった印象がある。

昭和(戦前) 8.角聖 双葉山の登場

双葉山定次は17歳に立浪部屋に入門した。はじめはとくに目立った存在ではなかったが、十両下位にいるときに春秋園事件が起き、特別措置で入幕してから徐々に頭角を現してくる。
昭和11年の5月場所9日目、双葉山が対するは横綱玉錦。当時玉錦は全盛期を迎えていた。仕切り直すこと7回、両者は制限時間前に立った。猛然と突っ張ってくる双葉山に対して、玉錦も負けじと突き返し、さっと右を差した。双葉山は左上手を引きつけ、右をのぞかせると、左上手の取れない玉錦は左を巻きかえにいった。そこを逃さず、双葉山は右から一気に寄った。土俵際に詰まった玉錦は、左で双葉山の首をうっちゃろうとするが勝負は決していた。双葉山は右をはずにし、ぐいっとばかりに寄り倒した。
この一番のあと、両者は3回顔を合わせているが、とうとう玉錦は1回も勝てずに終わった。まさに「双葉山時代」の幕開けを告げる「覇者交代の大一番」であった。

昭和(戦前) 9.出羽の刺客 安藝ノ海

すべての記録は破られるためにあるといわれるが、いまも破られていない相撲界の記録に双葉山の69連勝がある。しかし、連勝記録というものは微妙なもので、続いている間はあまり意識されず、ストップした時点で記録として認められるようなところがある。双葉山の連勝を止めた安芸ノ海も、そういう形で歴史に名を残した力士であった。
安芸ノ海は18歳の時、出羽海部屋に入門し、昭和7年2月に土俵を踏んでから、15年には関脇で優勝して大関に昇進、17年に照国とともに横綱に推挙された。非力ではあったが素早く左を差して一気に持っていくスピードのある取り口であった。
安芸ノ海は出羽海部屋の秘密兵器であった。安芸ノ海の相撲は双葉山の受けてたつ相撲をかき乱すのではないかと期待されていた。

昭和(戦前) 10.双葉散る

問題の大一番は昭和14年の春場所であった。実は両力士とも体調は万全ではなかった。双葉山は、アメーバ赤痢にかかり、体重が100キロを割るまでに激減し場所前にようやく110キロにまで戻していた。安芸ノ海は盲腸手術の術後が悪く、腹巻のように包帯を巻いた上にまわしを締めての土俵であった。
立ち上がりざま、安芸ノ海が激しく突っ張ると、双葉山は下から当てがって突き返す。体勢は安芸ノ海の有利であった。双葉山は安芸ノ海に両まわしをとられながらもしぶとく食いかかるがそれも及ばず、双葉山の体はゆっくりとくずれ落ちていった。
各新聞社は「双葉破る」の号外を出して、この歴史的ニュースを伝えた。一夜にして大スターとなった安芸ノ海は、その後横綱まで昇進したが、マラリアの再発に苦しんで成績は振るわず、昭和21年に引退した。

昭和(戦後) 1.焼け跡からの再出発

戦争は相撲界に大きな傷跡を残した。力士たちは戦地から帰ってきたものの、明け荷は失われ、相撲部屋は壊滅状態、何よりも食べるものがなかった。しかし、関係者の情熱が実を結び、応急処置を施した国技館で秋場所を行うことができた。
しかし、国技館があるうちはまだよかった。やがて国技館は占領軍に接収されて、土俵は外に追い出され、明治神宮外苑相撲場の露天土俵や、トタン張りの浜町仮設国技館で過ごすことになる。60年に両国の新国技館ができるまでの間、戦後の相撲史を刻むことになる。
協会は観客動員のためにさまざまな改革を行った。昭和22年には、それまでの東西対抗制の取組が一門系統別総当たり制の取組に変わった。殊勲・敢闘・技能の三賞が設けられたのもこの年である。場所数も段々と増えていき、現在の年6場所のかたちになった。

昭和(戦後) 2.立浪三羽ガラス

終戦後の土俵は、双葉山の引退によってぽっかりと穴が開いた状態だった。
最初に名乗りを上げたのは羽黒山であった。20歳という遅いデビューであったが、初土俵から3年、年間2場所しかない当時としては驚異的なスピード出世で横綱となる。身長179センチ、体重130キロと鍛え上げられた肉体は仁王様のようだといわれた。しかし、奈良巡業での結びの一番で、右のアキレス腱を切断してしまう。それからも再度アキレス腱を切断するが、引退するどころか12年余、横綱の座を守り続けた。
双葉山、羽黒山と並んで立浪三羽烏といわれたのが大関名寄岩だ。この人の人生は「律儀」の二文字に尽きる。19歳で出羽海部屋に入門し、取り口は単純明快だった。しかし、名寄岩の相撲人生はけがや病気との戦いに明け暮れた。十指に余る病気を背負い、ずるずると大関から陥落していったが、ぼろぼろの体に鞭打って38歳で関脇に返り咲いた。その根性、その闘志は人々を感動させ、映画や芝居にもなった。

昭和(戦後) 3.栃若と街頭テレビの時代

角界はどたばたとした戦国時代に区切りをつけ、新たな時代へと入っていくことになる。相撲の新時代を象徴したのは、昭和28年5月から始まったNHKテレビの実況中継放送だ。これによって、相撲人気は全国的なものへと拡大し、新たなファンを生み出すことになる。そして、二人の傑出した横綱を中心とした戦後初の黄金時代が築かれる。その二人は栃錦と若乃花、人々はこの時代を「栃若時代」とよぶ。
栃錦は、小学校をでるとパルプ工場に勤めたが、すぐに春日野部屋に入門した。栃錦の相撲はうまくて、強靭な足腰を生かし、土俵狭しと暴れまくり、勝負にかける執念深さから「マムシ」という異名をとった。すべての決まり手を使うのではないかと思われるほど多彩な技を駆使し、三賞を通算9回も受賞した技能派力士で、名人横綱とよばれた。
栃若時代のもう一方の主役である若乃花は昭和21年11月、に初土俵を踏む。苦労の絶えなかった若乃花であったが、土俵では順調で出世は早く、昭和25年には入幕。33年3月、45代横綱に昇進。最高時でも108キロという軽量力士だったが、人の何倍もの稽古量たまものであった。巡業の稽古でさえ殺気がみなぎり、周囲の人間を震え上がらせた。若い時には「狼」とよばれ、のちには「異能力士」、そして「土俵の鬼」とよばれた。

昭和(戦後) 4.柏鵬とカラーテレビの時代

栃若時代のあとにすぐやってくるのが柏戸と大鵬による「柏鵬時代」である。世の中はすでに高度経済成長期に入っていた。昭和39年には東京オリンピックが開催され、家庭にはテレビが普及していた。
大鵬は、昭和31年に二所ノ関部屋に入門。早くからその才能を見込まれて英才教育を受ける。身長187センチ、体重153キロという理想的な体型で、しかも驚くほど柔軟。色白の美男横綱、大鵬は一躍国民的スターとなる。大鵬の取組でどうしても忘れられないのが、「世紀の大誤審」であった。そんな事もあったが、さまざまな記録を打ち立てた大横綱大鵬は昭和46年5月場所を最後に引退する。
柏鵬時代のもう一方の雄、柏戸はさまざまな面で大鵬とは好対照の人物であった。柏戸は、伊勢ノ海部屋に入門し、29年9月場所で初土俵を踏んでいる。大鵬とは対照に「剛の柏戸」と呼ばれていた。昭和38年の3月場所に右肩を負傷する。再起をかけた9月場所、なんと柏戸は全勝優勝を飾る。引退後、年寄鏡山として大鵬とともに協会理事、審判部長を務めている。

昭和(戦後) 5.未完に終わった北玉時代

昭和45年1月場所、北の富士は優勝決定戦で玉乃海を破って3度目の優勝を果たす。そして、マスコミは「北玉時代」の幕が開いたと宣言したのである。
北の富士は出羽海部屋に入門し、身長185センチ、体重135キロという申し分のない体格であった。人よんで、「角界のプレイボーイ」。力士と芸能人、どっちが本職なんだと批判を浴びた事もあったが、優勝10回、三賞受賞6回は立派な成績だ。
玉の海は二所ノ関部屋に入門し、のちに片男波部屋に移った。早くからその才能は高く評価されていた。身長177センチ、体重134キロと小柄であったが、終始一貫右四つの型を追求し、相撲の基本にのっとった正攻法の相撲であった。しかし、昭和46年持病となっていた盲腸の手術から5日後玉の海は心臓動脈血栓症を起こして27歳の若さで急死した。前年の春に幕が開いたばかりの北玉時代はこうして、あっさりと幕を閉じた。

昭和(戦後) 6.全てが破格の輪湖時代

北玉時代があっさりと終わりを告げたあとには、輪島、北の湖による「輪湖時代」が到来する。
輪島は、名門日本大学相撲部の出身で、「アマチュア史上最高の横綱」といわれた輪島は、大きな期待をになって花籠部屋に入門した。「蔵前の星」とよばれ、45年1月場所にデビューし、トントン拍子で大関昇進。身長186センチ、体重132キロのがっしりとした体に強い腕力。しかし、派手好き、目立ちたがり屋だった。なにかと批判も多かった輪島だが、優勝14回という立派な成績を残し、昭和56年3月場所を最後に引退した。
北の湖は、三保ヶ関部屋に入門し、早いデビューが幸いし、49年の7月場所後に推挙された時は21歳2か月で、大鵬の記録を破る史上最年少横綱の誕生であった。身長179センチ、体重169キロというどっしりとした巨体を生かし、前へ前へと出ていく相撲を取った。昭和60年1月、引退する。引退後の北の湖は、協会からその功労によって一代年寄を贈られ、北の湖部屋を創設した。

昭和(戦後) 7.角界のプリンス 貴ノ花

貴ノ花は、いうまでもなく初代若乃花、二子山親方の実弟である。少年時代から水泳選手として名を上げていた末弟を、二子山はオリンピックに出場させたいと思っていたが、本人が角界入りを望んだため、二子山部屋に入門した。初代若乃花の弟ということで、貴ノ花は入門当時から人気があり「角界のプリンス」とよばれた。
身長182センチと上背こそあったが、体重はもっとも重いときでもわずか106キロという軽量力士であった。しかし、水泳で鍛えた足腰の強さは抜群で土俵際での粘り強さは驚くべきものがあり、「サーカス相撲」などとよばれた。昭和56年1月場所を最後に貴ノ花は引退する。
その後、息子の光司、勝が入門し、花田兄弟は若花田、貴花田として土俵に上がった。戦後の相撲史とは若乃花-貴ノ花-若貴兄弟と続く花田家の歴史にほかならないのかもしれない。

昭和(戦後) 8.ジェシー高見山来日

外国人力士初の幕内最高優勝を果たした高見山はこの時代にふさわしい人気者だった。高見山は、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島の出身で、高砂にハワイ巡業をきっかけにスカウトされて日本にやってきた。
言葉はわからない。食事は合わない。股割りができず涙を流したこともあった。しかし、高見山自身は「これは汗だ」と言いはり、「辛抱と努力」をモットーにもう稽古を積んだ。その努力が実ったのが47年7月場所の優勝であった。
高見山はが現役中に果たした役割も大きかったが、それ以上にそののち相撲国際化に果たした役割が大きい。彼の成功がなかったら、小錦も曙も日本にはかなかっただろう。

昭和(戦後) 9.ウルフ千代の富士

横綱北の富士引退後、10人ほどの弟子を連れて独立し、井筒部屋を創設したが先代の九重親方(元横綱千代の山)が亡くなると、その弟子を引き取って九重部屋を継いだ。そのときの弟子の一人が千代の富士であった。
千代の富士は、初土俵は45年9月であった。引き締まった筋肉質の体に、眼光の鋭い精悍な風貌。いつしか、千代の富士は「ウルフ」とよばれるようになった。歴代の横綱で、これほどハンデを背負った人も珍しいだろう。それを千代の富士はカバーしていった。
昭和56年の1月場所で初優勝を飾る。その場所後に横綱に推挙され、天下に千代の富士の到来を告げたのであった。その後の活躍は改めていうまでもない。まこと千代治の富士こそは、昭和という激動の時代をしめくくるふさわしい名横綱であった。

昭和(戦後) 10.黒船来襲 小錦の躍進

現代の相撲界は、外国出身力士の存在を抜きにしては語ることはできない。
外国出身の出世頭、小錦は現役時代の高見山にスカウトされ、高砂部屋に入門した。体重は206キロを超え、大相撲史上最重量力士である。その相撲は巨体を利した突き出しに加え、四つ身を覚えてからぐんと強くなった。泣き所は故障にも悩まされている下半身のもろさ。もう一つの弱みが体に似合わず気の弱い所。
ここ一番という土俵で取りこぼしが目立つ。早く精神面での安定をはかって、史上初の外国人横綱をねらいたいところだ。

平 成 1.横綱不在 群雄割拠の戦国時代

平成3年に王者千代の富士が貴花田に敗れ、引退。さらに平成4年には旭富士が若花田に破れて引退するという引退劇があった。かつて4人いた横綱は、平成3年から4年にかけてすべて引退し、横綱不在となった。土俵には戦国時代をもたらすこととなった。
現在の土俵で見逃せないものの一つに、藤島部屋と佐渡ヶ嶽部屋の対立がある。対立といっても別に仲が悪いという意味ではない。土俵上で火花を散らすライバル関係という意味である。
藤島部屋に若花田、貴花田、貴ノ浪、貴闘力、豊ノ海、安芸ノ島の6人衆がいれば、佐渡ヶ嶽部屋には琴椿、琴の若、琴錦、琴富士、琴稲妻、琴ヶ梅の「六琴衆」がいるといった具合で、お互いよく似ている。もちろん、藤島、佐渡ヶ嶽部屋以外部屋にも戦国時代にふさわしいくせものはぞろぞろといる。

平 成 2.日大相撲部の跋扈

藤島部屋の若貴花田、佐渡ヶ嶽部屋の琴錦以外にも戦国時代にふさわしいくせものの一人に出羽海部屋の舞の海がいる。
舞の海は、日大相撲部で活躍しての角界入りだが、身長が入門規定に足らず、シリコンを注入して合格したというのはあまりに有名な話。
とにかく何が飛び出すか分らない相撲で、立ち合いの猫だましは当たり前。宙を飛ぶかと思うと、いきなり後ろに下がるという前代未聞の立ち合いまで見せてくれる。人よんで、「平成の牛若丸」、あるいは「技のデパート」。曙相手に見せた三所攻めは見事であった。

平 成 3.曙vs若貴兄弟

相撲ブームの火つけ役はいうまでもなく藤島部屋の兄弟力士、若花田、貴花田である。
兄の若花田は、一時は弟の陰に隠れそうになっていたが、平成4年に入って急成長をみせ、5月場所では曙と優勝を争うまでになった。相撲はしぶとく、うまさを感じさせるもので、若い頃の栃錦に似ているという者もいる。弟の貴花田は、人気の面では角界一で現在の相撲ブームはひとえに貴花田の出現によるところが大きい。史上最年少優勝を果たし、偉大なる伯父である二子山理事長から優勝賜杯を受けた。
若貴と同期で、彼らに対するライバル意識を持つのが曙である。204センチの巨人力士で、入門以来18場所勝ち越しの記録を引っ下げて上がってきたが、一時壁に当たった感じだった。その壁を突き破ってからは好調そのものであった。

さらに言えば、この時期は「ハワイ勢vs二子山勢」とも言える。曙(横綱)、武蔵丸(大関~横綱)、小錦(大関~平幕)という巨漢ぞろいのハワイ勢。貴乃花(大関~横綱)、若乃花(大関~横綱)、貴ノ浪(大関)という二子山勢。この6人で優勝を争っていた。さらに二子山勢には、歴代最多の金星を挙げた安芸乃島や、平幕優勝も経験した貴闘力といった刺客もいて、金星や銀星が同部屋の横綱や大関の援護射撃にもなっていた。図式的にも面白い時期であった。

平 成 4.朝青龍の独走

史実は常にドラマチックなものである。貴乃花が引退した翌場所、若きモンゴル力士が横綱に昇進した。あまりにもタイミング良く、あまりにもスムーズな政権交代だった。1つの時代が終わり、新しい時代が始まったことを、多くの相撲ファンが感じ取ったであろう。
若干22歳で最高位まで上り詰めた朝青龍は、時に若さが暴走した。相撲内容から、土俵外での言動に至るまで、何かあるたびに横綱としての品格が問われた。しかし朝青龍は勝ち続けることで、それら一切の雑音を封じた。同時に、横綱としての自覚も強くなり、いつしか言動にも横綱らしさが漂うになっていった。
ライバルが居ない状態で、モチベーションを維持し続けるのは難しい。だが朝青龍は勝ち続け、優勝し続けている。千秋楽を待たずしての優勝が実に多い。相撲内容も、得意の速攻で一気に圧倒的な強さで勝つ相撲が殆どだ。現役を終えないと結果論は言えないが、大鵬や北の湖あるいは千代の富士の全盛期をも凌駕する一人勝ちの時代を築くのではなかろうか。