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相撲の勝負は8割がた「立ち合い」で決まる。うっちゃりや肩透かしといった逆転技が決まらない限り、先に前へ踏み込んだほうが勝つものだ。どんなに力があっても、どんなに大きな体をしていても、遅れて立てば劣勢は必至。だから力士は立ち合いの一瞬に全神経を集中する。 呼吸が合わず「待った」をする場面がある。どちらかの力士が(あるいは双方が)一瞬ためらったか、あるいは意図的に相手の集中力をそいでいるのだ。これを「息詰まる駆け引き」と評する人もいるが、私はそうは思わない。潔さが感じられない。相手をじらすあまりの「待った」ほど興冷めするものはない。 立ち合いから目が離せなかったのは舞の海と旭道山。何をしてくるか予想もつかなかった。 見ごたえのある立ち合いをする力士では土佐ノ海が圧巻だ。もうベテランの域に達しているが、立ち合いの激しさで彼を凌ぐ力士は未だ現れない。「だあっ」というかけ声と共に、頭からぶつかっていく迫力。相手の変化など微塵も考えていない。たとえ変化されても、そのまま押し切ることに徹している。土佐ノ海は、立ち合いで駆け引きしていればもっと出世した力士かもしれない。だが三十路に入った今なお、愚直なまで突撃相撲を繰り返す。この潔さは見ていて痛快だ。 反対に最も情けない立ち合いをするのが旭鷲山。いかにも力を抜いてフワリと立ち、両腕を前方に伸ばす姿は「恐いからぶつかってこないで」と言わんばかり。自分からぶつかるどころか、相手がぶつかることさえ拒絶していて、なんとも上品なことだ。 |
相手より先に立つためには、仕切りの時から、すぐにでも立てる体勢を作っておく必要がある。テレビ中継をするようになって、仕切りに「時間制限」が設けられた。「時間」になると審判役がサッと手を上げる。それを見計らって、呼び出しが手ぬぐいを差し出し、「時間」であることを力士に告げる。この「時間」前に立つこともできる。仕切りをしながら睨み合い、相手と呼吸が合えばいつ立っても構わないのだ。いや、本来はそうあるべきだろう。かつて貴闘力や濱ノ嶋がよく時間前に立った。いつ立つか判らないので、「時間」前でも目が離せなかった。逆に水戸泉や高見盛は最後の“セレモニー”をするまで立たないので、「時間」前にトイレに行くことができる。 この仕切りにも、美しい力士とそうでない力士がいる。一番みにくいのは北勝力。まるで柔軟体操の前屈でもしているかのように、脚が伸びて腰が高い。体が異常に硬く、上半身だけで相撲を取っているのがバレバレだ。 いちばんきれいな仕切りをするのは武双山。完全に腰を割り、下半身に力がみなぎっている。こういう仕切りを、かつて栃若時代を築いた栃錦や初代若乃花、角聖(相撲の神様)と言われた双葉山が見せていた。 相撲は勝負である。地位も名誉も金も、勝たなければ得られない。だから力士は、勝つために細部まで研究し、あらゆる策を弄する。その一方で、相撲は武士道でもある。精神的にどれだけ崇高であれるか、自己を鍛練する手段でもあると思うのだ。目先の勝ちにこだわらず、自らの哲学と美学を土俵上で昇華させる潔さ。そういう力士の登場を、これからも期待したい。 (2003/11/01) |
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